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長泉町内の観光スポット-019 長久保城 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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長泉町にある『長久保城跡』はまだ整備が行き届いていないために残念ながら観光スポットの有力な候補にとどまっています。(実は長泉町に30年近く住んでいる私もこの城について詳しく知りません)
そんな折、長泉町の郷土史研究者の星屋様から「規模は小さいが長久保城に関して展示するので来ませんか」と声をかけていただき、さっそく出かけてきました。

下長久保文化祭.JPG
長泉町はいくつかの区に分かれていますが、展示会は『下長窪区の文化祭』で行われていました。
入口の看板はいかにも小さな区の住民達だけで行っている発表会の様相を呈していますが、内容は濃いものでした。
長久保城の事を詳しく聞けたのも貴重な経験でしたが、それ以上に『長久保赤水が伊能忠敬より40年も早く作った日本地図(赤水図)』は衝撃的でした。

<長久保城>

長久保城ー1.JPG
資料によると長久保城は鎌倉時代の初期に、当時の東海道の要所である足柄を治めていた竹下氏(藤原家の一門)が築城しました。目的は南の北条氏(現伊豆の国市、源頼朝が婚姻した北条政子で有名)や牧氏の進出を阻止するための前衛防衛基地でした。
時代が下り室町時代になると今川氏により長久保城は一大拠点になりました。その後は戦国時代になるので北条氏・武田氏・徳川氏・豊臣氏・中村氏(豊臣氏の家臣)と支配者が代わり、1600年の関ヶ原の戦い後は徳川氏の命により廃城となりました。
まとめると概略下記の様になります。
鎌倉時代
   1198年:竹之下孫八左衛門が築城したと伝えられる
室町時代
   1417年:葛山氏(今川方)が支配
   1462年:長久保氏が支配
   1531年:北条氏が支配
安土桃山時代
   1579年:武田氏が支配
   1590年:徳川家康が在陣(豊臣秀吉と山中城攻撃の作戦を練る)
江戸時代
   1613年:廃城

なおNHKの黒田官兵衛や真田丸の一場面の小田原攻め(豊臣側が小田原城の北条氏を攻める)の際の豊臣氏側の前線基地が長久保城でした。(北条氏側の前線基地は現在の国道1号線の箱根峠の南に位置する山中城です。豊臣の重臣一柳直末の戦闘の逸話はこのBlog http://shijimaya.blog.so-net.ne.jp/ の「長泉町の観光スポット-006 一柳直末の首塚」をご参照ください。)

長久保城ー4.JPG
実際に長久保城のあった場所を探す起点となるのは、長泉町を通る国道246号線周辺にある『城山(しろやま)』と言う場所(神社・バス停・交差点などの名前になっています)ですが、現在はショッピングモール(名称ウェルディー)や小学校(長泉北小学校)になっているので、当時の本丸や櫓や堀の位置はほとんど見当たりません。

長久保城ー2.JPG
現在の地図と長久保城のあった場所を重ねると、大体の場所が把握できます。相当大きな城だったようです。

長久保城ー3.JPG
発掘調査の結果をもとに約400年前の長久保城の様子をジオラマで作ってありました。写真の上が北、右が東です。
長久保城は南側が黄瀬川が流れており、東側には黄瀬川まで南北に水壕が掘られ、西側は桃沢川と急斜面の崖があり、北側は愛鷹山麓が繋がっていて自然に守られた難攻不落の要塞のようです。
なお二の丸の周りの堀は『畝堀』(堀の中に畝が作られている)で、この作り方は北条氏の出城の山中城にも見られるので一時期長久保城が北条氏の配下にあったとわかります。また本丸の西側の堀は月形になっていますが、この作り方は武田氏のものと同じなので、武田氏の配下にあった時期もあることがわかります。


<赤水図>

長久保氏ー2.JPG
先ず長久保氏の系図ですが、元々は九州の『大友氏』の一族です。室町時代に城主となり名を長久保に改めたようです。


赤水地図ー1.JPG
長久保赤水は12代の城主で地政学を学んでいました。
そのため正確な地図の重要性を理解していたものと思われます。
伊能忠敬も大日本地図を作る際に赤水図を参考にしていたという話を聞いて驚きました。同時に何故社会科の歴史の教科書に載っていないのか疑問がわきました。

赤水地図ー2.JPG
これが赤水図です。
日本全土をくまなく歩き作ったと聞きましたがどうやれば、当時の知識と技術でこの様な地図ができるのか皆目見当がつきません。
また凄いのは緯度と経度が入っていることです。緯度は現在の地図と1度以内の誤差だと聞き、さらに衝撃を受けました。なお伊能忠敬の地図には緯度経度は入っていないとのことです。

赤水地図ー3.JPG
赤水図は精度の高い日本地図だったので、吉田松陰は『赤水図があるので目的の場所に最短に行ける』旨の話をしたとか江戸幕府は『地政学の面から発禁にした』旨の話が伝わっています。
確かに発行していた時期は短かったようですが、この新聞にあるように日本の要所が正確に把握できる正確な地図は地裁学上重要なものなので開国間近の日本を虎視眈々と狙う諸外国は赤水図を入手しては本国に送ったようです。そして現在でも欧米で29点が見つかっています。

赤水図の様に正確な上に緯度経度が入っている地図が伊能忠敬の大日本図より40年も前にできていたことが歴史の教科書にこれっぽっちも載っていないのは何故なのか・・・この疑問は晴れませんでしたが、この長泉町に所縁のある歴史上の重要な人物を新たにひとり知ることができました。

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